ビッグパレットふくしま・盆踊り報告(7/17)

越前そばはおいしかった

ボランティアの報告と言っても、院生二人と私(三浦)の報告です。

今日はビッグパレットふくしまの夏祭り2日目の盆踊りの日。われわれ福大勢は、昨日の20名から2名に激減したものの、質は維持することができたのではないか、という自己満足的な報告です。

元々2日目は学生ボランティアはいらないということだったので、2日目は撤退しようと思っていたのですが、前日の院生たちのブースから2日目もぜひお願いしたいという話だったので、こんなところでお役に立てるのであればと思い、この日も稼働させることにしました。

参加者は院生3人の予定が2名となり、そうすると引率する私の立場が際立ってくるので、どういうスタンスで臨もうか、会場をうろうろしながら考えていました。

当初院生に割り当てられたのは、新潟から来ている「磯焼き」のブースで、日本海の海産物の焼き物がとてもおいしそうで、実際少し味見させてもらったところ本当においしくて、それは炭火焼きの熱も何のそのというくらい、感動的なおいしさでした。

ところがすぐに、同じ新潟の越前そばのブースに移動させられ、院生の2人は海苔を刻んだり、そばの水切りをしたりという仕事を割り当てられました。

私も何かしようかと思ったのですが、ブースも狭く、要領の悪い私などは迷惑をかけるに違いないと思い、できればそばをゆでる熱気からも遠ざかりたいという思いも少しあり、会場をうろうろしていました。

昨日から会場に活気を与えていた吉本興業の「ペンギンナッツ」の2人は今日も来て場を盛り上げています。

富岡町の町長さんと川内村の村長さんの挨拶に続いて、双葉町の太鼓グループの演奏となりました。
派遣されているAETも団員を務めるその演奏は、本当に感動的なものでした。

ご存じの通り双葉町は福島県内と埼玉県に分断され、今日が震災以来初めての演奏ということでした。その力強い響は、音楽を超えて、復興を鼓舞するエネルギーのようなものに思えました。

挨拶の中で、「当初3000人の避難者が本日で308人にまで減った」とありました。8月末で閉鎖するという公式のアナウンスも初めて聞くこととなり、この巨大なビッグパレットでの経験も、一つの思い出になっていくのかと思うと、感傷的になってしまいます。

ちなみに、昨日の子ども祭の参加者数は1600人、この日は1000人だったそうです。

太鼓の演奏が終わる頃、さて院生はどうしているかと思って覗きに行ってみると、相変わらずせっせと仕事をしています。

ふと、海苔がなくなってしまったことに気づき、近くのスーパーに買いに走りました。戻ってきて、海苔をきざむ仕事をもらい、職業がら60枚をあっという間にきざんでしまったところで、院生たちは帰る時間に。

「あとは私がやるから」ということで、器を並べて、そばを氷水で冷やして、器に入れて、タレを注いで、という仕事をおこないました。
あんまり役に立っていないということはわかりましたが、逆に少しは役に立っているという実感もありました。

あと100食ぐらいという段階になって用意した器が切れてしまい、あちこちから使い古しの器を集めては洗い直し、最後の最後までそばのサービスは続きました(すぐとなりの関西のお好み焼きのコーナーは半端でない人気で、この時点でも長い行列ができていました)。

数食が残ったところで、ボランティアの分を残してサービスを打ち切り、1食の越前そばをいただくことができました。それはもう感動的なおいしさでした。

学生たちと同じ感動を味わうことができました。

なお、新潟のボランティアの皆さんから、励ましのTシャツをいただきました。



ふと、前日のボランティアに参加した学生たちの感想文を読みながら、いろいろなことを考えさせられました。

与えられたニーズに学生が対応するのだとしたら、それは既存の社会の歯車の一つとして働くことにはなるでしょう。学校はそのように子どもたちに教えてきました。

しかしいまこういうとき、ニーズがあるかどうかではなく、「とにかく一緒にやろうよ」といって、背中を押したり、肩をたたいたり、手を引っ張ったりして動きをつくり出すことの大切さを痛感します。それは多くの場合「余計なこと」として批判されることもあるのだけれども、その「余計なこと」がない限り「社会」は生まれて来ません。

学校は「他人に迷惑をかけないこと」を金科玉条としますが、人と人との関係には迷惑はつきものです。迷惑をかけるな、ということは、極端に言えば人とつきあうな、ということに等しいのです。

よかれと思ってやったことが一方で迷惑として受け止められることはよくあることです。

人間は迷惑をかけることなしに存在できないし、迷惑を通して人との関係を作っていくのです。(迷惑をかけない赤ん坊というものがいたら会いたいものです)

壊れてしまった社会を再生させる上で、お節介や余計なことがいかに重要な役割を担っているか、本日のボランティアを体験して強く感じさせられました。それはイコール、ボランティアのあり方と関わってくる問題です。私たちはいま、社会の生成の場にいるのです。ボランティアとはそういうものではないでしょうか。

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